

この物語は、室町末期に書き写されたお伽草子・『貴船の物語』を現代語訳したもの。そのあらすじは、「内裏の扇合せにふと見た女房の絵姿に恋をした中将が、鞍馬の奥の岩穴から鬼国に至り、天女にも勝るかと思われる美しい鬼の姫宮と出会う。姫の父・鬼の大王が責めるので、姫は中将を守り、命を捨てる。そののち姫は、中将の伯母の娘と生まれ変る。鬼は節分の夜に二人を襲うが、鞍馬の毘沙門の示現(霊言)で炒り豆を打って退け、さらに五節句を営んで鬼軍を追う。二人は幸せに暮らすが、やがて姫は貴船の大明神となり、中将はまろうど神となって、共に衆生を守ることになった」というもの。
この物語からみると、貴船神社は鞍馬寺より後に鎮座したことになるのだが(貴船神社は千六百年昔の反正天皇の御代に創建されたと伝えられている古社。鞍馬寺も平安期以前に開山された古寺だが、延暦十五年に貴船明神のお告げによって藤原伊勢人が堂宇を建立したと伝えられている)、それは、仏教が日本に渡来し、神仏習合して盛んになり、室町時代になると神と仏の関係を「仏が衆生を救うために、仮に日本の神々となって現われる」という、いわゆる「本地垂迹(ほんぢすいじゃく)」説が盛んに説かれた時代で、そういう時代背景の中で生れた物語だということを、まず知っていただきたい。たくさんの写本があって、内容はほぼ同じといわれている。
ここでは節分行事と五節句は、貴船神社と鞍馬寺が始まりだと興味深い説が展開されている。貴船・鞍馬は御所より丑寅(北東)の方角に当たる。丑寅は鬼門に当たり、常に悪魔がその方角より出入りすると考えられ、貴船神社も鞍馬寺も共に悪魔の侵入を防ぐ皇都の守護として皇室の尊敬を受けていた。貴船山に貴船の神が降って来られたのが丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻であったと伝えられ、また鞍馬寺が鑑禎上人によって開かれたのが寅の月の寅の日の寅の刻だといわれているのも、そのことと深いかかわりがあり、当時の貴船神社と鞍馬寺の関係もうかがい知ることができる。
このような物語があったことを知る人も、今では地元にも少ない。かつては大衆に親しまれたであろうこの物語を、このまま埋もらせておくのは勿体ない。恋物語としてのストーリーもおもしろく、また、この物語から、古くから貴船神社が「恋を祈る神社」として信仰されていたこともうかがえる。この物語が再び日の光を浴びることを期待して、現代文に書き替えた。現代文にすると味気ないと思われる箇所がずいぶんあったが、批判を恐れずに、あえて語訳を試みた。
ここに現代語訳した元になるものは、『室町時代物語大成』に納められている「貴船の物語」と「貴船の本地」(いずれも慶應義塾図書館所蔵)双方から。意味不明の箇所、つじつまの合わない箇所は、双方読み比べて、筋が通るように合体した。
貴船神社宮司 高井和大(かずひろ)記


そもそも中頃のことだった。帝王がいらして、御名を寛平法皇と申し上げた。その頃、大臣の御子に、定平の中将と申し上げる方がいらっしゃって、法皇がたいそう目をかけ、頼りにしておられた。中将はまだ独り身でしたので、ある日、法皇から、
「男の幸せは美しい女房と結ばれることで、早く京中のどこからでも良い、すばらしい女房を捜して迎え入れよ」
とのお言葉をいただいた。中将は驚かれ、辞退申されたが、重ねての御命令で、仕方なく都の内のこれと思われる女房を迎え入れては御覧になるが、中将の心にかなう女房はなかなか見つからない。いろいろと難をつけては送り返され、月日はたつばかり。

ある時、内裏で花見の宴が開かれて、法皇の前で扇比べがおこなわれた。
中将に、大井殿という父方の伯父がいらっしゃる。その大井殿が、白金の骨に黄金の要をはめこんだ扇を作らせて、都に名の聞こえる絵師を呼び、その扇に、「金子に糸目はつけないから、人の驚くばかりの女房の絵を描け」と命じられました。絵師は引き受けはしたものの、とても自分の力だけではかなうまいと、七日間の精進をして鞍馬に籠(こも)ったところ、毘沙門天が夢に現われ
「この障子を開けてみよ」
との示現(霊言)があり、夢ともなくうつつともなく障子を開けると、そこには天女のような女房がいて、その姿をありのままに描きあげて大井殿に差し上げた。大井殿は大変によろこび、この扇を法皇の御覧に供した。
法皇、御覧になって「なんと美しい扇だろう」と、その扇をしばらくお手元に留め置かれました。ある日、中将をお呼びになり、
「自分が持っていようと思ったが、そなたにこれを授けよう」
と、その扇を中将に下されました。
中将は、その扇を開いて御覧になると、
「これはどうしたことだ」
目をみはらんばかりに驚かれた。その絵の何と美しいこと。この世にもこれほど美しい女房がいるのだろうか、いや、いたからこそ絵師も見て描いたに違いない、今まで見た女房の中にこれほど美しい人を見たことはない、このような人とせめて一夜だけでも枕を並べてみたいものと、絵の女房にすっかり心をとらわれてしまわれた。
お屋敷に帰られてからは口もきかず、思いは日毎つのるばかり。「逢うよりほかの薬なし」と、胸は打ち騒ぎ、あれやこれやと思い悩まれ、とうとう恋の病にふせられて、御所への出仕も止めてしまわれた。
法皇がこのことをお聞きになって驚かれ、あちらの寺こちらの寺に祈祷をおさせあそばされた。父の大臣も驚かれ、いろいろ祈祷をさせられるが、恋の病は直るすべもない。修験者、識者等は、御命もそう長くはないだろうという始末だった。
中将殿御自身も、嘆いてばかりいても逢えるわけではない、これはもう扇の主の元に伝えて絵師に尋ね、いつ、どこで、この女性を見て、このような絵を描いたのかを確かめ、恋しい思いを慰めようとお思いになり、伯父の大井殿の元へと使いをつかわされた。
大井殿はさっそくお屋敷に馳せつけると、そこには焦燥しきった中将殿が……。驚いて、
「どうして中将殿はこのようにおやつれになったのか」
「先程法皇より賜った扇を見て、定平はこのように情けない姿になってしまいました。命もそう長くはないものと思います。そこでお尋ねしたいのだが、この扇の絵を描いた絵師はどこの絵師で、一体どのような女房を見て描いたのでありましょうか。ぜひ一目だけでも見たいものでございます」
「やれやれ、扇の絵を見て筋の通らぬ恋をなさるものだ。たとえば、そこらの某(なにがし)という娘が良いと聞き、また、見初めた人に恋文を書いたが取り入れてもらえぬとか、お互いに好き合ったが親が反対して逢わせぬとか、主人持ちの女房殿に恋をしたが叶わぬ、などというなら話は分かるが、これは絵師が筆に任せて描いたもので、描かれた絵の主を恋しいなどとは、ほんに筋の通らぬ話ではないか」
「おっしゃるとおりだが、しかしながら、この人のことについて、あるがままお話下さいませ。それだけでも慰められます」
大井殿は、それほどまでおっしゃるならば話して聞かせましょうと、お話になるには、
「これより北へ行けば鞍馬のお寺があります。それより先に細い道があり、それを遥かに行けば僧正谷というところがあって、そのさらに奥に大きな穴があり、その中に入っていくと国がある。その国の名を鬼国(きこく)といいます。そこには鬼の大王がいて、娘の姫宮が二人いる。姉の方を十良御前(じゅうろうごぜん)といい、歳は十六。妹は<こつ女(じょ)>の宮といって歳は十三、大変美しいと聞いています。天女のお姿よりも美しく、また毘沙門の御妹・吉祥天女もこの姫宮にはかなわない。扇の絵よりもはるかに勝ってはいますが、これはこの世の話ではないのです。鬼の娘だということをよくよくお考え下され、中将殿」
これをお聞きになった中将殿は、「いないというなら別のこと、いると聞いたからにはたとえ鬼の娘であろうとも、逢わずにおかれるものか」とお思いになった。せめて夢でも見てみようかと、まどろんではみたが、夢を御覧になることもない。神仏に祈請すれば逢うことができるかもしれないと、まず氏神の春日大明神に十七日お籠りになり、さらに長谷の観音に参られて十七日お籠(こも)りされた。すると、観音の霊夢があって、
「これより帰って鞍馬の毘沙門にお頼みなさい」
中将殿は大層およろこびになって「願わくば定平に、かの娘を引き逢わさせ給え」と、深く信じて帰途につかれた。
その日は奈良にとどまられ、供の者に、
「これより汝は都へ帰り、明後日の暮れ時にここへ迎えにまいるがよい。定平は思うことがあってここにとどまっている」
と、おっしゃった。供の者は、
「ここにお一人でとどまられては大臣殿、北の方様がけっしてよいとは申されませぬ」
と申し上げたが、
「なに、それも一日のことだから、何も心配することはない」
供の者は力及ばず都へと帰っていった。


さて中将殿は、ただちに鞋(わらじ)をおつけになってただお一人、「なむ大師、観世音、願わくば定平の宿願成就せしめ給え」と祈りを捧げて鞍馬へ参られた。
大臣殿と北の方様は、中将一人置いて帰ったことを大いにお怒りになり、皆々を向かわせて捜したけれども見つからず、どうしたものかとお困りになった。
中将殿は、鞍馬の御宝殿に参られて、
「なむ大師の多門天、これより北の方、七百八千里のかなた、三十三天竺の仏法を修行し、衆生の願を満たさん。事がなれば定平の願いを成就ならせ給え。それがかなわぬというならば、御塔をも仏をも焼きはらい、自害して魔王とならん。御利益を目の当たりにあらわしめ給え」
とお祈りになった。三十七日の満願の日、夜明け方、夢ともなくうつつともなく、ただまぼろしのように毘沙門が現れ、
「汝は何事を願っておるのか」
中将、かしこまって、
「寛平法皇の御前にて扇比べがございまして、大井殿の絵女房を見て、定平、つまらぬ恋をしてしまいました。仏身三宝に祈請致しましたところ、大和の国・長谷寺の観音の御示現がございました。毘沙門に申せと、それにて汝の願いは成就するであろうと申されました」
毘沙門、からからとお笑いになって、
「それこそ筋の通らぬ恋よ。そこらあたりの人が恋しいというのならばその願いをかなえてやろうものを。絵師が筆に任せて描いた絵女房を見てそのような事を申すとは。それはできぬ事じゃよ。しかしながら、これは身の毛もよだつ話だが、恋の慰めに聞かせてとらせよう」
毘沙門の話されることには、
「西の方の<かいらしょう>というところに行けば鬼がいる。その鬼の背丈は十六丈、顔は八つ、角は八百八、眼は十六、前の牙は剣のごとし。口から出る息は百里の内が霧になる。その色は紅のごとし。口一つに物を入れようとすると、八つの口がそれぞれにそれを奪おうと騒ぎ立てる音は、太鼓を二三十打ち鳴らすごとし。天上界、下界の果てまでも揺るぎわたる。その鬼の娘でも汝は恋しいか」
中将、かしこまって、
「そのような鬼の娘でもよいのでございます。恋しくて恋しくて、そればかり思っております」
「さらば汝に見せん」
と、傍らの御簾(みす)を上げて、
「逢え」
中将、驚いて御覧になると、正面の傍らに女房一人いらっしゃる。薄絹を被っておられるのをのぞかれると、天女と見まがう女房だった。一目見るなり、
「これはなんと」
扇の絵女房と比べてみれば、扇の絵女房は三十二相(女性の美しい相をすべて備えた相)、こちらは八十相。はるかに勝っていて、扇など物の数ではない。
中将、そばに寄って、
「どこから」
とお尋ねになる。恥しそうに、
「鬼国から」
とお応えになった。
中将が「それならばお供いたしましょう」とおっしゃると、宮は「それはできぬ事」と申される。
それでも中将
「神仏に祈請して毘沙門の御示現(霊言)によってただいまお逢いすることができました。どこまででもお供いたしましょう」
「それでなくても女は月の障りがあって不浄ですのに。法華経の五の巻に一障梵天、二障帝釈、三障魔王、四障転輪聖王、五障仏身と書かれています。五障(女性が持っている五つの障害)の雲が立ち上って消えません。女というものは五百生の間、生まれ変る間、このような苦痛はやむを得ない事でございます。わらわはそのような身でございますので、殿のお気持ちにお応えすることはできません。わらわのところにお出でになろうものならば、十日もお命はございません」
中将、これをお聞きになって、
「宮をお見かけしてここに留まっても、思いは募るばかりで、それは死ぬるも同じことでございます。たとえ火の中、水の中までもお供いたします」
そうまでいわれては宮もさすがに感に堪えず、
「これも神、仏の御計らいでございましょう。どうぞおいでなさいませ。わらわの住んでいるところは水際の氷もいまだに解けない、もの憂い(田舎くさい)ところですが」
と、中将殿を鬼国の庄へと導いていかれました。
男女の定めといえばそれまでだが、ただかりそめの契りを結んで、鬼国の庄へと急がれました。


鞍馬の奥、僧正谷に入り、丑寅の方に大きな岩があり、その岩に穴が開いている。宮は中将の袂(たもと)をひいて申されるには、
「これよりはもう早くお帰り下さい。この穴に入ったものは千人に一人も生きて帰ったものはございません。拝見しましたところ、御兄弟もいない御様子で、父上様、母上様も御心配なさることでしょう。この穴に入ってしまっては、再びお帰りになることはできません。何とぞ何とぞ、これよりお帰り下さいませ。わらわは毎月、月に一度は鞍馬へお参りいたします。これから後もお逢いすることもできましょう」
「お姿をお見受けした以上、あなたを置いて都に帰っても、私はきっと生きてはいないでしょう。お供申しても死ぬのなら同じことで、湯水の底までもお供いたしましょう」
宮の袂に取りついて、穴の底へと入っていかれました。日の光、月の光も見えず、常夜の闇のごとく真っ暗な闇の中をさ迷っておられるのだが、宮にお逢いできたよろこびの方が大きいので、闇も明るく見えるほどだ。
穴の中を五十里ほど行くと、国があった。
「ここはどこだ」
「ここがわらわの住んでいる鬼国でございます」

高いところへ上がってみると、日本を二三百合せたほどの広さだとも。どうしてこんなに広いのかと感心なさっているうちに、大きな川があって橋が架かっている。渡って御覧になると、鉄(くろがね)の築地(ついじ)、高さは十丈もあり、同じく門も聳(そび)えている。
「これは何だ」
「これこそわらわが住む鬼国の庄の総門でございます」
築地の中を十里あがって見ると赤鉄の門がある。
「これはどこだ」
「わらわが父の<中の門>でございます」
その中をさらに行くと、白金の築地。高さ十丈で、同じく門が聳えている。
「ここはどこだ」
「これは父の門でございます」
その中に入って御覧になると、言葉もでない。金銀黄金の築地が張りめぐらされ、同じく門が聳えている。その中は皆、白金の延べ物で、水晶の巻き柱、梁桁は白金黄金の打ち板が張られ、七間四面の主殿に、九間の渡り廊下、十二間の侍所に鉄を延べて敷いてあるのだが、鏡の面かと思うほどの輝きを見せている。
白金の格子天井に綾を畳ませ、錦で柱を巻き、玉を連ねて御簾とし、黄金を延べて扉とした部屋に入り、七重の几張(きちょう)を掛けた所へ中将殿を御案内申し上げた。


さて、宮が中将殿に申し上げるには、
「君は都にて、公卿、殿上人と御交際をなさっていて、このようなもの憂いところではおさびしく、お気の毒なことでございます。四季の庭をお見せいたしましょう。御覧になってお心をお慰め下さいませ」
と、ともに立たれて四季の庭をお見せになりました。

まず、東の方を御覧になりますと、初春の景色で、雪も氷もいまだに解けず、梅がようやく咲いている。柳に混じる糸桜(しだれ桜)、どこまでも捨てがたい余韻が漂っている。遠い山に帰る雁、花に宿借る呼子鳥(かっこうの別名)、谷に鳴き渉る鶯の声。聞くも珍しくて中将は歌をお詠みになった。
たちわたる かすみのうちの うぐひすは ただ春風に まかひやはせむ

西の景色を御覧になると、池の水際の松にかかった藤の花、山吹は咲き乱れ、八重桜の末にとこなつ、あやめ、清涼殿の蝉が声も惜しまず鳴き渡っている。中将、おもしろく思われてまた歌をお詠みになった。
なつ山に こゑふりたててなくせみは 心のうちに人ぞこひしき
秋の方を御覧になると、しおん、りんどう、萩の花、露も重そうな花すすき、かるかや、われもこう、花に見える荻。松虫、こおろぎ、はたおり、きりぎりす。虫の声は弱り果てて、紅葉は散り積もる。秋の名残を惜しみつつ、中将はさらに、
うすもみじ 数ちる山の さをしか(小牡鹿)も つまや恋しと かぜや身にしむ
とお詠みになった。
また、冬のかかりを御覧になると、時雨、あられが絶え間なく降り、松の緑だけがまばらに見える。池の水鳥は浮きつ沈みつ群れ遊び、月影も寒々とした夜ともなれば、互いに呼び交わす千鳥が、霜夜に羽を重ねているのでしょうか。
こんなにすばらしいところで、いつまでも宮と共に暮らしたいものと思われて、歌をお詠みになりました。
もろともに 千代を重ねて 思へども うきねのとこは いかがあるべき


しばらく四季の景色を眺めていらっしゃって、宮の方を御覧になると、宮のお顔がにわかに悲しそうにお変りになった。
「わらわの住家へ、ただいま恐ろしいものが参りました。こちらの方へお隠れ下さい」

中将、「なるほど」と思われて障子の中に入り、間から御覧になると、天から雷が鳴り起こって、大地が大揺れに揺れ、怪しげな風が吹き、雨が降り、門のところに背丈は五丈ばかりの鬼が揺るぎ出て申すには、
「宮はおいでかな。大王が必ずお出で下さいとのお使いで乙丸が参り申した」
と、御前にかしこまる。
宮はこれをお聞きになって、
「わらわは鞍馬へ参ってきました。今帰ってきたと申しておくれ、乙丸よ」
「承知いたしました」
と、帰りかけて、門のほとりに立ち止まって、
「これはただごとではないぞ、宮の内があやしいのう。人臭いではないか。ああ、日本の人間がいるのではないか。ちょうだいして大王に捧げて生贄(いけにえ)にいたそうぞ」
あわてて宮は、
「わらわの家に人間などおりませぬ。わらわは、このほど精進をして鞍馬へ参り、人間の道を踏んできたので、そのためであろう。お帰りなさい。おかしなことをいうではないか」
と、きびしくおっしゃったが、
「それにしてもひどく人臭いのう」
と、つぶやいて立ち去った。
中将、出てこられて、
「今のは何者だ」
とお聞きになった。
「これこそ、わらわが父に仕えている乙丸と申します。父大王の使いでございます」
「大王にお目にかかることができますかな」
と、さらにお聞きになる。
「わらわの父に顔を見合わせて、命ある者は一人もおりません」
「それでは宮が大王の元へ行かれて、お帰りをどこでお待ちすればよろしいかな」
宮は、涙をお流しになって不安そうな声で、
「わらわが父のところに参りますと、その後は必ず四方から鬼どもが来て、天を駈け、地を叩いて御所中を捜すでしょう。山を壊し、大地を五尺掘り埋めようとも捜し出し、お命お助かりになることはむつかしゅうございます。あなたのお顔を拝しているのも今宵限りでございます」
と、お泣きになる。
「残念だが定平の前世の報いじゃ。物言わぬ扇の絵を見て、三年ほど恋に迷い、たまたまこうしてお逢いして十年、五年、せめて一年、いや十日さえも一緒に過せないのか。今宵でわずか七日の縁、それだけで今お別れすることのなんと悲しいことよ」
と、互いに袂(たもと)を取り合って涙をお流しになりました。
宮は一本の杖を出してこられ、その杖は、上の方へ撫でれば大きくなり、下の方へ撫でれば小さくなる杖で、その名を「ししばんとう」の杖という。その杖を撫でられると、中将殿、たちまち四寸ばかりに小さくおなりになった。宮の肌守りの中にお入れして、左の脇の下に肌身離さずお掛け申し上げ、大王の御前へ心細げにお出でになった。
大王がいうには、
「御前(ごぜん)はこのほど鞍馬参りと聞く。それではさぞかし精進したのであろうな。さ、さ、早く宮に酒をとらせよ」
八人の鬼どもが、青頭瓶子(へいし)に酒を入れて来ると、
「何か肴(さかな)はないのか」
「心得ました」
人を一人、生きながら鉄のまな板に据えて持ってきた。中将はのぞいて御覧になると、まな板の上の人は、名前を二条の花見の少将という。春は花のもとで日を暮らし、秋は月を前にして夜を明かされるという、都では人も知る風流人だ。年は三十一におなりで、父母と子一人。このまま死んでしまったなら、七十になる父御(ててご)、六十になる母御(ははご)は、いったい誰を頼りとされるのか。また、今年六つになる幼子もあり、父と呼ぶ人もいなくなる。さぞ嘆かれることだろうと、見るに涙も止まらない。中将、思いの余りに、「定平これにあり」と、いいたいけれども、だれとてもあの難儀を逃れることまできまいと、それを見るにつけても、わが身の上と一つになって、落ちる涙は絶え間ない。
この花見の少将、春日の御神事の時、上の松原より、美しい女房にたわむれて、鞍馬の奥、僧正谷へお入りになって、思わぬ鬼国へ捕らわれの身になったと、人づてに聞いてはいたが、これを今、目の当たりに見るとは。
大王が、
「早く包丁をして持って来い」
と命令すると、鬼ども承って四つの手足を捌(さば)き、いろいろ調理して差し出した。再び大王が、
「宮はこのほど精進しているらしい。宮によくよく食べさせよ」
驚いた宮は、
「わらわは仏法を願う身なれば、肉は止めております」
「なんとばかばかしい。我々の中に肉を止めて仏になろうという、けしからぬ奴が出てきたぞ。我らが中ではじめてのことだ。ばかばかしい。それならこれへ持って来い」
と取り寄せて、後ろの口、前の口へ押し入れて味わい、酒を取り寄せて荒々しく飲み、顔を真っ赤にし、眼を返してこぶしを握り、額を抑えて宮をしきりに睨みつけた。
「我御前(わごせ)は日本より男を連れてきたな。我に会わせよ。生贄(いけにえ)にしてやろう」
宮は顔を赤らめて、
「ゆめにもそんな事はございません」
大王、大いに腹を立てて、
「ないというか、憎い奴。痛い目に遭わせてくれるぞ。恥を見ぬうちに、さあ、出すのだ」
返事もなさらないでいらっしゃると、大王、大いに怒って自ら立ち上がり、宮の背丈にも余る髪の毛をためらいもなく手にからめ、縁の上に引き伏せ、雪の肌に手を差し入れて捜し回した。宮は言葉もなく、しばらくは気絶なさり、とにかく、これほど恥しい思いはしたことがないと悲しまれた。
そのとき、北の方(奥方)が立ち上がり、大王の手に抱き付かれておっしゃるには、
「どうしてそのようにひどいことをなさる。天をかける鳥、地を走る獣までも、子供を思う道に迷いが起るのは世の中の常でございます。だのに、ましてや姫を、すぐさまに罰を与えなさる。ああ、なんと悲しい。たとえ男を隠したとしても、姫が違うと申しているのですから、一度は許しておやりなさいまし。ましてあれほどにためらいもなく、姫の肌に手を入れて捜しなさるとは」
と、かきくどくおっしゃると、さすがに乱暴で危険な鬼だけれども、后に制せられて渋々もとの座に戻った。


あまりに悲しくて宮は泣く泣く自分の館にお帰りになったが、大王がいうには、
「あまりに泣くので今夜ばかりは許してやる。今夜は男と名残を惜しんで来い。だが、明日の午の刻に差し出せよ。生贄にするのだ。男をかばって隠そうものなら、今度は汝を食してやる。二人のうち一人は、必ず必ず参るのだ」
と、約束させられてしまった。
さて、お守りの中から中将殿を取り出してお撫でになると、元の背丈に戻られた。手と手を取り交わされ、ただ泣くより他にすべがない。中将、流れる涙を押し止めて申されるには、
「やっとお逢いして鬼国にきて、君と親しくなれたのでもう命など惜しくはありません。しかし、君とお別れすることがなんとも悲しいのです。けれども、今生(こんじょう)での契りは浅くても、来世は必ず一つ蓮(はす)の縁になりましょう。後は深く弔って下さい」
宮は泣く泣く、
「君がお亡くなりになっても、この国は仏法もなし、人もなし。経巻を書き、弔い申し上げる方法がございません。深く奈落の底に落ちてしまわれることが悲しいのです。わらわの命は四百歳もあり、それまで殿をお待たせするのも長すぎます。殿の命は、長命といっても百二十年でございますから、殿のことを思えば身代りにわが命を捨てましょう。殿は都へお帰りになって、わらわが後生(ごしょう)をお弔い下さい。君が先に逝かれては、だれがお後を弔えましょう。わらわはとてもこの難儀を逃れることができるとは思いません。そのわけは、わらわの姉でございます。十良御前(じゅうろうごぜん)と申しましたが、バラナイ国より殿方をお連れしたところ、二人とも父の生贄になってしまわれました。どのみち助かりません。わらわが代りに父の生贄になりましょう。どうか都へお帰り下さい」
「都へ帰っても、宮恋しさに五日十日と生き永らえるとは思いません。さらば宮と一緒にともかくもここにおりましょう」
「君と一緒にと、わらわも思いますが、君に先立たれて誰が後を弔うことができましょうか。奈落の底まで落ちてしまうことが悲しいのです。わらわをお思い下さるお心がおありならば、都へ帰り、わらわが後をよくよく弔い下され。日本国は仏法の盛んなところですから、五障三従(女性が宿命として持っている苦しみ)の迷いの道を百部の経を書いて供養し、五戒をお守り下さいますれば、わらわは即身成仏するでありましょう。今は心にそぐわなくとも、一筋に君と契りを結び、わらわが仏道に導かれる機縁でございます。早くここからお逃げ願います」
と、中将殿を伴われ、鬼国を出て、花の都、二条の御所にお送りになった。中将は宮の袂にすがりつき、
「しばらく待って下さい。申し上げたいことがございます」
と、互いに御手を取り交わし、心ゆくまでお泣きになる。
「離ればなれになっていつの世にお逢いすることができるのでしょう。宮は、鬼国に帰って大王の餌食となり、その臨終の時はいつなのか、知る術がありません。何とかして知りたいものです」
「わらわの臨終は明日の午の刻でございます。わらわが叫ぶ声は、如何に人が多くても君の耳にだけは蚊の泣くほどに聞こえます。嘘だとお思いでしたら、盥(たらい)に水を入れて御覧下さい。水の色が紅になった時が私の臨終とお思い下さい」
「宮の供養をばどのようにいたしましょうや」
「わらわが供養は天台山より千人の持者(叡山の学侶)を呼び、五部の大乗経をお読み下さればきっと成仏するでしょう」
「宮が恋しくてたまらない時は、何を形見とお偲びしましょうや」
すると宮は、
「それなら形見を差し上げましょう」
と、はなだの帯を中ほどより切取り、中将に差し出され、
この世にて 君をみるめのかたければ 生まれあはむと これ形見なり
中将もこれを受けとって
はかなくて 世の浮き雲は変はるとも また来む世にも 生まれあふべき
「それではこれまで」
と、互いに名残を惜しみつつ、あちらに送り、こちらに送り、二度三度と送り送られる。こうして宮は、泣く泣く鬼国へお帰りになった。
大王、これを知って
「なんと憎いやつよ。男を送って帰ってきおったぞ」
と、八人の鬼どもを呼んで命令すると、鬼どもは宮の館に乱れ入り、雪のような肌に手を差し入れ、たちまちにして十二単(じゅうにひとえ)をはぎ取って、長い髪の毛を手にからめ、紅の袴をも緩め取り、五尺のまな板に引き伏せて調理をしてしまった。なんとも浅ましことだ。
大王は前の口、後ろの口、八つの口に押し入れて味わい、
「この十三年の間育ててきて、これは日本の人間よりもはるかに味は上だわい」
と、舌打ちをすると、后の<ひらん女>これを見て天を仰ぎ、地に伏して悲しまれた。
「ああ情けなや、たった二人の娘を、また生贄にしてしまった。十良御前、こつ女の宮までも同じ道に」
と嘆かれて、ついに身投げをしておしまいになった。



これは鬼国の物語。さて、中将殿はというと、都に留って悲しんでばかりで、そのお姿はなんともいたましい。宮の臨終は午の刻といわれたので、盥に水を入れて御覧になっていると、宮の声と思われる「あら悲し、あら悲し」と五声六声まで聞こえ、今、宮がお亡くなりになったのだと、しばらくの間、呆然となってしまわれた。やがて気を取り戻され、盥をのぞかれると、水の色が真っ赤になっていた。中将殿は涙がとめどなく流れて、今は亡き人の菩提(ぼだい)を弔おうと、法皇へ出家の暇を申し出られた。法皇は、
「汝を失って三年になる。その間でさえ寂しく思い、都は暗闇のようになって国が病にかかってしまったようなものだ。ふと帰ってきたと思ったら、どうして出家暇を致すのか」
と仰せられ、出家することができず、在家のまま五戒を守られることになった。その五戒とは、殺生戒、偸盗(ちゅうとう)戒、飲酒(おんしゅ)戒、邪淫(じゃいん)戒、妄語(もうご)戒といって全ての命を殺さず、盗みをせず、酒を飲まず、女房を持たず、嘘をつかない。このように宮の遺言のままにお過ごしなされ、供養あそばされた。
朝夕お思いになっては嘆き悲しまれ、
むらさきの 雲の上にはいたれども 恋しき人はつゆも忘れず
と、おっしゃったことなど思いつづけられ、すこしお眠りになると、宮のお姿、面影を夢に御覧になって、おそばに近づこうとされると夢から覚め、
「ああ夢か、目を覚まさないで月日を送りたかったものを。夢ははかないものだ」
と、降る雨のように涙にくれられる。心にかなうだけ供養しようと、天台山より千人の僧をお呼びになり、五部の大乗経をお読みになり、「宮が奈落の底にお沈みになっても、この経の功徳(くどく)の力にて成仏されよ」と、お弔いになった。

さてさて、中将殿は、昼は宮中にお仕えになり、夜は人の世のはかなさを感じて功徳を専らとなさり、念仏を唱えて宮を弔うという毎日をお過ごしだが、そのころ、中将殿の父方の叔母御前に二条の局(つぼね)と申される方が懐妊され、十月もたたないのに出産された。そのお子は三十二相を備えられた美しい姫君だった。ただし、この姫君、左手の指がないということで乳母をつけて「れんだい野」に捨てられてしまった。ちょうどその時、中将殿、夜巡りしてこの野に出て念仏を唱え、お帰りになろうとしてこの姫を御覧になった。
「どうしたのか」
「この姫は、左の御手の指がなく、不自由でいらっしゃるので乳母をつけてここへ送られたのでございます」
これをお聞きになって、
「定平は生きものの命は殺さぬという殺生戒を保っている。その上一門ではないか。ここへ捨てて帰って死なせてしまっては、自分の殺生戒が破れてしまう」
と、二条の御所に連れてお帰りになり、多くの乳母をかしずけてお育てになった。
宮とお別れになってはや十三年、姫君も十一におなりだ。その姿の美しいこと、<こつ女>の宮に生き写しかと思うほどよく似ていらっしゃる。姫君は和歌の道をたしなみ、琴や琵琶がお上手でいらっしゃる。春は花のもとでお過ごしになり、花を散らす嵐を嫌い、秋は月の前にて夜を明かす。なにごとにつけて世の無常を静かに思い、ただの平凡な人とは思えない。
中将、この宮を御覧になっては<こつ女>の宮のことをあれこれと思い出され、またも涙が止まらない。姫君、自分を御覧になっている中将殿のところへお近付きになり、
「いつも中将殿の御嘆き深くていらっしゃるが、特に今宵は、一層、思いの色深くお見受けいたします。おいたわしいことでございます」
と涙にむせばれると、中将も袂を絞るばかり。
姫君、中将殿の袂に取りついて泣く泣くおっしゃるには、

「わらわこそ、鬼国にて殿の身代りとなってあの世に参りました<こつ女>でございます。殿が五戒をお守りになり、五部の大乗経をお読みになったお力により、わらわは即身成仏して悟りを開き、極楽世界の仏となりました。梵天、帝釈の御命令で、<裟婆(しゃば)世界に二世の契りをこめ、恋しく思っている者がいる>とて返されました。しかし、わらわには宿るべき腹がなく、叔母御前の腹に宿って生れてきましたところ、母の御勘当を蒙(こうむ)って捨てられました。そのわけは、左手の指がないからでございます。いえ、指がないのではございません。殿とお別れ致しましたときの形見を持っているのでございます。御覧下さい」
と、生まれてこのかた起こさなかった指を起こして御覧になると、<はなだの帯>の切れ地をお持ちだった。中将、これを御覧になって、夢かうつつか、不思議なことだと、守りの中から御自分の<はなだの帯>を取り出してお比べになると、紛うことなく同じ帯だった。うれしい中にも、またも涙をこぼされる。
中将は、
「うれしいけれども、なんとも悔しいではないか。何でまた叔母の腹などに宿られたのか。再びあなたと契りを交わすことができません。昔から今に至るまで、一門の中で結ばれることはないではありませんか」
とお嘆きになった。
これをお聞きになった法皇は、

「人は皆、五年十年離れてめぐり逢うことこそ前世からの縁と申すもの。いわんや、ひとつの川の流れを汲み、一樹の蔭に宿るのも五百生の契りという。ましてや、一周忌に生まれて、十三年に名のって逢う。それだけでなく、過去の形見がある上は、たとえ一門であろうともさしつかえはない」
とおおせられ、お許しになった。
中将は「天にありては比翼の鳥とならん。地にありては連理の枝とならん」(夫婦がいついつまでも仲むつまじくの意味)と、ひじょうによろこばれた。一門の中であっても結婚ができるようになったのは、寛平法皇の御時からはじまった。
こうして二人は、昔、契りを結んだ時よりも、さらにめでたくお幸せに暮らされた。


さて、鬼国の大王、このことを聞き知って、
「なんと不思議、一度餌食にしたというのにこりもせず、また生まれ逢ったぞよ。なんと憎いやつらよ。今度は二人とも餌食にしてやろうぞ」
と、八人の鬼の手下どもを先兵として日本へ送ろうとした。その時、鞍馬の毘沙門、これをお知りになり、「罪なき人々のためならば」と別当(現代の警察庁長官)に示現(霊言)を下された。大変驚いて法皇に報告申し上げると、法皇は大学寮の学者衆をお呼びになって「方策を占え」と下命された。いろいろと調べ、占って申し上げるには、
「この鬼は節分の夜に必ずやって来る。しかし、鬼を来させない方法があります。七人の博士が鞍馬の奥、僧正が谷の奥の岩屋を封じ塞いで、三石五斗の炒り豆で鬼の目を打つならば、鬼は十六の眼を打ちつぶされて、眼を抱えて返るでしょう。<かぎはな>という鬼、<てなが>という鬼あり。この鬼には鰯を焼いて串に刺し、家の門口に刺しておけば、人と間違えて鰯をとっていくでしょう」
と。

それならばと、七人の博士を呼び寄せ、その通りにすると、はたして鬼、十六の眼を開いてやって来たが、炒り豆を三斗まくと、眼を打ちつぶされて返ってしまった。
大王、腹をたて、
「穴は塞ぐことができても、天までは塞ぐことができまい。よし、今度は日本の人間どもをことごとく奪い取ってやる」
と声高にわめくのを、鞍馬の毘沙門お聞きになり、また別当に
「急いで法皇にお伝えし、五節句ということを祭るべし」
と示現を下された。別当、急いで参内し、法皇にこの由をお伝え申し上げた。
法皇、大学寮の学者衆を召して、
「五節句ということを占え」
と、おおせられ、七人の博士がお応え申し上げた。
それは、まず正月は、七日の日、七草をとって三方(さんぼう)に奉る。三月三日は桃の花、草餅で祝い、五月五日はちまき、七月七日はそうめん、九月九日は菊の花。これらは皆鬼の悪行を征服する方法。
桃の花は、鬼の目に似ていることから鬼の眼を飲むということで、酒に桃の花を入れて飲む。草餅は鬼の肉の代わりとしてこれを食う。ちまきは、鬼の髻(もとどり)としてこれを食う。菖蒲は、鬼の角として酒に入れて飲む。そうめんを食うのも、鬼のはらわたとしてこれを食う。菊の花は鬼の眉毛として酒に入れてこれも飲む。正月に門松、歯朶(しだ)、譲葉(ゆずりは)を門口にかけるのは、門松は鬼の墓標、歯朶はあばら骨、譲葉は鬼の舌。
このように五節句をはじめると、大王これを見て、
「いやはや、これでは事はならぬ。日本の人間にたぶらかされてはかなわない」
と、その後は鬼国より出て来ることはなくなった。
恋路の闇に迷う者は、貴船の大明神を信じ奉れば、きっと願いが成就するに違いないと、皆、祈りを捧げるのも道理である。姫君は中将と再び生まれめぐり逢って百二十年の命を保たれ、霊験あらたかな貴船の大明神となられ、人々の願いを見守っていらっしゃる。中将殿は百八十年の齢を保たれ、不老長寿の<まろうど神>となられ、貴船両所の御神として人々の迷いをお救いになっていらっしゃる。
節分の夜の炒り豆や鰯の頭、これ五節句のはじまりと聞いている。これをよく祭る人は、鬼の難を逃れるのみならず、不老不死の薬となって、この世は安穏で、後の世も極楽、諸願成就して皆これ満足し、長生きをするとか。
貴船の宮の本来の姿はこれで、よくよく信仰すべしと申し伝えられている。


「恋路の闇に迷う者は、貴船の大明神を信じ奉れば、きっと願いが成就するに違いないと、皆、祈りを捧げるのも道理である」――当社は水を司る神としての信仰が篤いが、「恋を祈る社」としても広く知られていたことが、このようなお伽話からもうかがい知ることができる。
貴船神社が「恋を祈る神社」として知られるようになったのは、今から千年もの昔、宮廷の女流歌人として名高い和泉式部が貴船に詣でて、夫との復縁を祈願したところ願いがかなえられたという話に始まる。
「もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞ見る」
愛しい夫が他の女性に心を奪われ、あれこれと思い悩んで貴船神社に詣でたところ、貴船川に蛍が乱舞している。そのはかなく点滅する光を見ていると、自分の魂が抜け出ていって、この身は今にも死にそうな気がするのです。
せつない思いを歌に詠んで貴船の神様に捧げたところ、中から男の声で返し歌があった。
「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかりものな思ひそ」(そうあれこれと思い悩まずともよい)――それは神の声に違いない。
ほどなくして夫婦の仲は円満にもどったと伝えられている。
この時の蛍の歌は、和泉式部の歌の中でも傑作中の傑作とも評されて、有名な話として伝わっているのである。
千年もの昔に、あの宮廷の貴婦人たちが、どのような出立ちで道も険しい賀茂川の源流にまで訪れたのであろうか。和泉式部と親交の深かった同じ宮廷の女流歌人・赤染衛門も貴船を訪ねている。
「ともすらむ方だに見えず鞍馬山 貴船の宮にとまりしぬべし」
貴船神社に参拝したけれどもすっかり暗くなって手明りの先の鞍馬山も見えなくなってしまった、今宵は貴船神社に泊まろう――というわけだから、当時、貴船神社にはすでに泊まる施設があったこともうかがえる。紫式部もまた、『源氏物語』「若紫」の段に鞍馬寺と思われる情景を詳しく書き留めており、鞍馬にも参り、貴船にも詣でたであろうことは十分に考えられる。
当社奥宮参道の入り口に架かる小さな橋を、「思ひ川橋」、その下の小さな流れを「思ひ川」と、いつの頃からかよばれている。
「思ひ川渡ればまたも花の雨」――高浜虚子の句も残る。
遠く平安の都人たちが来た頃は、おそらくその川で手を洗い足を洗って身を清め、そして参詣したであろう禊(みそぎ)の川――「物忌(ものいみ)川」ともいうのだが、その「おものいみ川」が、和泉式部の話と重なり、いつの頃からか「思ひ川」になったのであろうといわれているが、そのような難しいことを考えずに、遥かな昔に思いを馳せて貴船を訪ねてみるのも、また楽しいものである。
高 井 和 大